百万石の次回予告Column 009

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2009.8.21 On Air Theme 『 握手 』
柔道家や格闘家などが、よくテレビで「握手をしただけで相手の実力がわかる」なんて言うのを見かけるが、手を通して相手を感じ、推し量るのは、 決してそういった類のファイターだけに与えられた能力では無い。

別にオレら素人だって、相手が強い弱いまではわからなくても、こちらに対して好意的かそうでは無いかくらいはわかる。


握手をした時の力の強さがイマイチ伝わってこないと、正直まともに心を開けなくなってしまう。握手をするくらいだから、お互いに敬意を払い、 考えや意志が同調したアカシとして握手するものだと思っているので、その手を握る力が伝わってこないと、この人はさっきの話で本当に納得したのだろうかと 勘繰ってしまう。

仕事でもプライベートでも、今でも付き合いのある人間は、皆、異様に強い力でオレの手を握り返してきた。オレよりガタイが小さくとも、こちらが痛いと思うほどに 力をこめて手を握ってきた。その痛みは、こちらをやる気にさせるのである。別にそいつを信用してようとそうでなくても、何とか応えてやりたい、 何かしてやりたいという気持ちになるのである。


オレも、相手を傷つけ無い程度に力強く手を握る。その握った分だけ助け、助けられてここまで生きてきた。

相手を探るだけでは前に何も進まないことがわかる、良いボディランゲージだと思う。



2009.8.28 On Air Theme 『 計算 』
高校の時に勉強が出来なかったオレは、とても勉強が出来る、それこそ全国レベルで頭の良いお友達に、どうやったらそんなにスラスラと問題に 対する答えが出てくるか聞いてみたことがある。
その要領や仕組みを聞いた途端、ああオレは別にこいつらみたいに勉強できなくてもいいや、だって無理だもの、と納得して、大手を振って 落ちこぼれの道を邁進したのである。

たとえば、数学。
微分積分はもちろん、因数分解すらままならなかったオレには本当に理解できなかったのだが、彼らは、計算式が頭の中で「映像」として 浮かび上がってくるらしい。
球体でも四面体でもない複雑な形をした物体の容積を求めるでも、その物体をまずは頭の中で自分がやりやすいように分解し、そして計算式を 「映像で」組み立てるのだそうだ。
んなもん頭の中でやるのと紙に鉛筆で書くのと変わらんやろとも思ったが、彼らに言わせれば紙に書いてやるとミスが出るし効率が悪い (ワンテンポ遅い)らしいのだ。
実際に紙に書く式や計算は、彼らにとっては検算(確かめ算)だと。もう解を書いている時点で間違いが無いか確かめてるわけだから、そりゃ 満点取るわな。
ちょっと外れると、鬼のように勉強が出来る集団の中の1人は、英単語さえも日本語に直すのは効率が悪いと言っていた。Dogという単語を、 「犬」という日本語を頭に思い浮かべるより、四本足で駆けまくってボールを追いかける動物を頭に描け、と。

こんなヤツらと同じ学校に通っていたこと自体、未だにセルフ経歴詐称なんじゃないかと思ってしまう。彼らは恐ろしく柔軟で、かつ豪快な 脳ミソをしていると思う。

よく「計算高い人」という言葉を耳にする。皮肉を込めた、あまり良いイメージでは使われない言葉かもしれない。
しかしそれは、上のような秀才連中が持つような、柔軟で豪快な能力を持っている証拠でもあると思う。ようは、その言葉を使われてしまう くらいに、周りは舌を巻いているのだ。それだけ、周りを凌駕する力を持っているということ。すごく立派なことだと思う。

計算高さの対面にあるのは、純粋、なんじゃないだろうか。
オレ個人は、純粋な人よりも、計算高い人のほうが好きだ。
そっちのほうが、人間的に赴きがあって、奥が深い。

オレがひたすら噛みまくるのもともやすが大して目が悪いわけじゃないのにメガネをかけているのも國光がずっと休んでいるのも絶対カメラ目線で 番組をしないのも、

・・・・・・・計算かもしれませんよ?



2009.9.4 On Air Theme 『 まさか 』
この原稿を書いているのが8月31日の夜なんだけど、
昨夜はまさかの出来事が起きた。民主党圧勝。
つか、正直言うとちょっと圧勝しすぎのような気がする。それほどの魅力が民主党にあるのか?と。

個人的には、自民党が負けるのは何となくわかっていたし、一回野党に落ちて根本から考えを改めたほうが良いとは思っていたが、 それにしても、そこまで大差がつくほど自民党がひどかったか、民主党が素晴らしかったかというと、疑問が残る。
二大政党どころでは無い。あれでは一党独裁に近い。
自民党の政治家さんたちは、まさかここまで負けるとは、とひどく落ち込んでいると思う。
が、しかしだ。
もっと「まさか」に包まれているのは、おそらく民主党のほうだ。
まさかここまで勝っちゃうなんてと、びっくりしているのが本当のところなんじゃないだろうか?
今まで味わったことの無い、大きなプレッシャーに包まれているだろう。

あくまで個人的な目線で書くが、
この民主党の圧勝劇は、「男がいる女を奪った」感覚にそっくりだ。
その女は、今の男にほとほと飽き飽きして、急に現れた新しい別の男が、異様に輝いて見える。
新しい男は、その女に大したことをしたわけでも無い。ただ行きずりに、ただ成り行きに、肌を重ねあってしまう。
新しい感覚は余りにも甘美であり、ちょっとしたことがすごく良く思えてしまう。

しかし、そんな女は、しばらくするとまた別の男に惹かれてしまう。
男の感覚からすると、「ああ、とった女はとられるんだ」ということを身に染みて舐める。

これによく似ている。今の日本国民は、自民党という男にボロボロにされたうえに何もしてもらえなくなったところで、 新しい民主党という男が、頼もしく、逞しく、美しく見えてしまうのだ。
しばらくして、失って気付く前の男の魅力が、少しずつよみがえる。女の心はまた静かに動く。


民主党という名の男は、日本という女を、金でもプレゼントでも安定でもセックスでも何でもいいからあらゆる手を使って、 自分の許から離してはならない。
傷付き易くなった女の心は、なかなか一点に定まらない。
民主党にとっては、決して簡単なことではない。

僕ら庶民の心は、
女心や秋の空よりはるかに、
変わりやすくなっていることを彼らには自覚してほしい。
まずは、7.1兆円。マニフェストを完遂させるために必要な金額だ。
宝くじ一等前後賞合わせて、の、約24000回分。
夢のような政策を掲げたのだから、死ぬ気で集めてほしい。



2009.9.11 On Air Theme 『 宝物 』
自分にとっての宝物と言えば、もちろん、嫁さんと二人きりではあるけれども、家族であることに間違いは無い。でもそれは守って当たり前である。 宝物という言い方が果たして良いのかどうか。家族の大切さや素晴らしさはかけがえの無いモノであるが、それを守らなければならないプレッシャーも、 当たり前なだけに付きまとう。

今、そういうプレッシャーが全く無く、密かにコレクトしている宝物と言えば、掘りに掘りまくったyoutubeコレクションだろうか。

なんせ、web上にほぼ無制限と言っていいほど溜め込めるというのがコレクトするには最適というか、仕事では無く趣味として楽しむ分にはデータとして形にするのでは無く youtubeで充分である。その手軽さもあって、音楽を始めとして、自分の趣味のカテゴリに関しては、掘りに掘りまくって、ブックマーク欄にはおびただしい数の動画が入っている。

こういった、実質無形のモノであれば、宝物と言えども保存は簡単なのだが、

有形の、しかも例えば江戸時代から伝わる掛け軸とか、先祖代々伝わる「家宝」とかになるとそうはいかない。

鑑定価格ウン百万とかするような代物は、間違いなく宝物と呼べる。しかしこれはプレッシャーが凄まじい。

まずどうやって保存していくか。そもそもそれをどうするのか。自ら動いてこちらに何かしてくれるわけでも無ければ、こちらも動かしもしない、 まさに核ボタンみたいな宝物を持った人は、ある意味で大変である。

オレが仮にそんな宝物を持っていたとしたら、知らない先祖の顔をへのへのもへじに変換しつつ、その顔に必死に頭を下げながら、早々と骨董商に売りに行く。

宝物とは、自分が責任持ってそれを愛でて楽しみ、そのモノの価値を下げない環境が整ってこそ、宝物と初めて呼べるのではないか。これが出来ないのであれば、 自分には金銭としての財産になったほうがいいし、価値がわかりきちんと後世にそれを伝えていってくれる人の手に渡ったほうがいいのではないかと思う。

今春親父が亡くなった時、この手のキワドイ宝物が出てきたらどうしよう、と、ワクワクより遥かに変な緊張感が自分のハートに走ったものだが、幸いにも大したお宝は出てこなかった。 正直、ほっとした。


もちろん自分の手元にこの手の宝物は存在しないしこれからも手にいれることは無い。

かっこいい音楽やおいしい食べ物の記憶、家族や友人と作ったいい思い出が、脳ミソが元気な限り宝物となって自分の中に息づく。



2009.9.18 On Air Theme 『 日記 』
日記、という言葉だけを聞いて言えば、オレは日記が嫌いだ。

ブログというカテゴリが一気に浸透して、筆やペンを取ってつらつらとノートに日記を書く人も少なくなったと思う。自分の場合は、日記をつけたことが無い。 夏休みの宿題のあさがお観察日記さえまともにつけた覚えが無いので、日々のことを紙につらつらと書くのは苦手というより、なんでそんなことしなきゃという思いが先に来る。
日記にしろブログにしろ、書いてる本人はペンだろうがキーボードだろうが書く内容や思いはだいたい一緒なのだろうが、大きく違うのは、人様に見られるかそうでは無いか。
もちろん人に見られることを全く意識せずにブログを書いている人もいるが、ほとんどのブロガーは、あくまで人に見られることを前提にして文章を書いているように思える。

もちろん反論は受け容れるつもりで書くが、
ブログとは違って、自分以外の誰にも読まれることの無い日記というものを、つらつらと連ねる人はちょっとおかしいんじゃないかと、どうしても思ってしまうのだ。
ブログが普及する以前に、担任の先生に添削されるあさがお日記とは違って、自分で書いた文章を自分で添削する日記を書いていた人は、いったいどうして、どういう思いでそれを 連ねていたのか、理解が出来ない。

インターネットの普及により、我々の生活はより簡素で便利なものになった。でも、それによって音楽や映像や絵画やニュースなどの価値は明らかに半減、よもするともっと落ちた。
でも、ブログだけは、人々の思考や個性などを効率良く公開することの出来る素晴らしいものであり、ネットによって得られた一番便利なものではないのだろうかと思う。 やるかどうかは別にして。
というのも、自分の考えや思いというものは、他の人に表現してこそ初めて意味のあるものになってくるんじゃないのだろうか。別にその表現が巧かろうが拙かろうがどうでもいい。 伝える、ということは、そこに責任がついてくる。だからこそ、伝える側にはそれに対する思いがより強くなるのでは無いのだろうか。ブログはそういう意味で、 人々の思いのはけ口を大きく広げてくれたものだと思う。

突然死んでしまったりして、誰にも読まれることの無かったはずの日記が、自分以外の人間に晒されるくらい、恥ずかしいものは無い。死んでしまったのに、 さらに棺桶の中でもう一度死ぬほど恥ずかしい思いをすることになる。いつ死ぬかわからないから、自分しか読まないような文章は絶対に書かない。

ブログがこれだけ普及した時代に、今でもペンと紙で日記をつけている人もいらっしゃると思う。
どんな思いで、どんな理由で日記をつけているのか、とても興味がある。



2009.9.25 On Air Theme 『 目 』
何を怒ってるんですか?とよく言われることがあるんだけど、言われた瞬間は怒ってるどころかとても口に出して言えないくらい エッチなことを考えまくってて、え?なんで?と聞き返す時の様子がまた怖いと言われ、八方塞がりなオレは、昔っから、 なんだか目が優しいんなんて言われたことが無い。

顔が怖いってのは本人の努力次第でどうにでも、いわゆる自分の顔を柔和な方向に持っていくのはそんなに難しいことでは 無いのだろうが、目が怖いってのはどうしようも無い。目の表情なんて簡単に変えられないと思う。相手もまっすぐこちらと 向き合って話してくれるんだからと、真剣な目をするのがいけないのだろうか?10代の頃から目が怖い、目つきが悪い、 言われに言われまくって、言われるのが嫌だったから出来るだけ目を合わずに喋るようにしていると誠意が伝わってこないと言われ、 そりゃオレ人嫌いにもなるわと自分で納得する。

却って、動物はいい。

動物の目はいいなぁ。とても純真だもの。

やさぐれたオレの目に、ひたすら興味の固まりが詰まった眼差しを送ってくる。

猜疑心なのか好意なのか、どちらでもその目の色は強烈である。だから動物はやめられない。

動物でも人間でも、目で訴えかける力というものはすごい。

その目線からこちらはいろんな意味を読み取るのだが、目に力があればあるほど、受け取る側はその目に引き込まれ、 それに賛同したり恐怖感を味わったりする。

とびきりエッチなことを考えているオレの目が怖いと言われるということは、

オレはソノ気になったらケダモノ以外の何物でも無いということなのだろう。

まったく、自分の余裕の無さが嫌になる。

今流行りの「友愛精神」が目に出てくるように、日々、悔い改めたい。



2009.10.2 On Air Theme 『 毛 』
もう10年前になるが、スキンヘッドにしていたことがある。

自分で剃っていたのだが、毎日剃ると使い捨てのT字のヒゲソリが3日でダメになる。

当時は、別に一生このままの髪型であるつもりは無かったんだけど、何となくかっこいいと思っていたからスキンにしていた。

さすがにバンドじゃ食えねぇなぁと思い始めた頃にしょうがなく就職活動を始め、その頃からスキンヘッドを卒業し、髪を伸ばし始める。その時、愕然としたことが一つ。

スキンヘッドにする前、びっくりするほどの直毛だった自分が、
生えてくる毛を触ると、なんと猫っ毛になってしまっていた。
野球少年くらいまで生えてきたころに自分で頭を撫でると、
タワシのような感覚しか経験してなかったのに、なんともソフトなスポンジのような手触りである。

ちょうどその頃、30歳近い人と一緒にバンドをやっていて、その人が、
「オレが今の歳でスキンなんかにしたら、もう毛が生えてこない気がする」と言ったのを聞いて大笑いしたのだが、
当時23くらいの自分は、それがあながちウソでも冗談でも無いと思い直した。

今はスキンヘッドにするとまともに話を聞いてくれないような業界にいるので普通に髪の毛を生やしているのだが、
髪があるならあるで、ヘアスタイルをどうするかという呪縛から離れられないでいる。

正直、どの髪型も似合ってそうで似合って無い気がする。

たぶんスキンが一番しっくりキテたんだよなぁ。

何も考えなくていい、ヘアスタイルの構築を真正面から否定した、毛の無い「スキンヘッド」は、
世間からもっと受け容れられていい。



2009.10.9 On Air Theme 『 ため息 』
タバコを肺の奥まで吸い込んでしばらく息を止めてゆっくりと吐き出すと、白いはずの煙が少しグレーに変わったように見えて、 更にため息混じりに吐き出すと黒に近いグレーの煙が出てくる。
まるでため息の重さを象徴するかのように、真っ黒ではない煙がエクトプラズムのようにもくもくと湧き出てくる。

ため息が出るうちはまだ大丈夫、それこそホントに詰んでしまった状態にはため息どころか呼吸まで忘れてしまう。どうしようも無い時は吐く煙は きっと真っ黒なんだろう。まだ自分は黒い煙を吐いたことが無いから充分幸せな人生だと思う。

ため息には物理的に色なんて無いけれど、
茶色やグレーの煙が出ているような気がする。
ため息をつくなとも言わないしつかないなんて無理な話だが、
自分の吐く息が暗い色だってのはちょっと寂しい。
普段は、黄色とかピンク色とかの、幼稚園の花壇のような息を吐きたいものだ。



2009.10.16 On Air Theme 『 だって... 』
だってだってとよくせがみ、と週刊誌にすっぱ抜かれたのは姫井由美子議員だったなあと思いきや、あの人の場合は、ぶってぶってとよくせがみ、だった。もっと酷かった。

だってだってと繰り返し相手に反論してもそうしたところで結果は覆らないことが多いと知ったのは高校生くらいの頃で、でもそこで諦めるんじゃなくてだがしかしという言葉を 皮切りに初めて交渉がスタートすると知ったのが社会人になってから。
子供の「だって・・・」は、言う分には何度も通用するが、大人のだってはそう何回も使えない。そもそも、だってなんて言葉、大人になって使っちゃいかん。 頻繁にだってだってと繰り返すと、物分りの悪いバカなヤツだと思われてしまう。 もちろん自分も返答に詰まったりすることはある。しかし、だって・・・なんてフレーズは おくびにも出さない。それこそまだ、かなり強引だけど、いきなり「ぶって・・・」といやらしい目つきで言ったほうが、全く違うベクトルの新しい道が拓けるかもしれない。
だって・・・なんて言いながらすぐにパッと言葉が出てこないくらいなら、あなたにとってこれはさして重要では無い話なんだろう、と。そう捉えられるのが社会の仕組みなんだと 大人になって知った。

ああ、でも、今書いてて気づいた。
ということは、だってだってと連発する人って、まともにその話に乗る気が無いから、だって・・・と言いまくってるということなんだ、と。今の日本人の事無かれ主義な 流れからすると、意外に便利な言葉かもしれない。もしかして、だってを連発したほうが、相手にとって感じ悪く無いのだろうか?
いずれにしても、最近はあんまり使わない言葉だからよくわからん。
それより「ぶって姫」の政治家としての来年の処遇のほうが気になる。



2009.10.23 On Air Theme 『 涙 』
結婚披露宴で、ほぼ高い確率で見られるのが『感謝の手紙を読む時の新婦の涙』である。
たまに人様の披露宴のMCをさせて頂くこともある自分だが、あの場面はたまにこちらもうるうる来ることがある。友人とか縁者とかでは無く、何の脈絡も無い新郎新婦の家族から読み取れる 愛情つーのは、例え他人の自分でも軽く感情移入してしまうものだ。

もう一年以上前にもなるが、とある新郎新婦の披露宴を担当した際、やはり新婦は手紙の場面ですぐに涙を溢し始めた。
滅多に無いのだが、こういう時にMCは、本当に新婦が号泣して手紙が読めなくなってしまった時のために、手紙のコピーを渡されている。代読するためだ。
手紙の3分の1も読んで無いあたりにも関わらず、新婦はもう今にも崩れんばかり。ああ、来るか、代読来るか、と、いつでも行けるように、フロアキャプテンの指示を今か今かと 待ち続けていたら、次第に新婦の嗚咽を超える涙声が会場に響き始める。

「○○ちゃああああああああああうおおおおおああああいいいいん、良かったねぇえええええぇうああああああ!ふぁぁぁぁあああああ、良かったねええええええ!」

その泣き叫ぶ声の主は、手元にあった席次表を見ると、新婦の叔父だった。
自分だけで無く、会場にいるゲストもその叔父に気付き、もらい泣きするかと思いきや、次第にみな笑い始めた。

「ちょ、泣きすぎww」
「××叔父さん○○ちゃんより泣いてどうするとよーww」

そんな声が辺りから出始め、新婦もそれに気付き、会場は全員笑い始め、妙に和やかな雰囲気になった。
その叔父はそんな和やかな雰囲気はお構い無しに「うおおおおおおおん!」とぽろっぽろ涙を流している。まるで自分が好きなアイドルが、ライヴの途中で突然引退宣言をしたような感じにしか 見えない。

その後新婦は泣きながらも、笑いに充ちたその流れに乗って、何とも幸せな雰囲気でお開きを迎えた。

披露宴が終わりゲストが会場から出る時、その叔父さんがわざわざ自分のとこにやってきて、「あんた良かったよ名司会だよおおおおお、兄ちゃんのおかげで○○は本当に 幸せもんだよおおおおおうわあぁああぁああああ」とまださっきの勢いを保ったまま、握手を求めてきた。いや、ホントそんな、恐縮です、なんて言いながら手を握り返したが、 その手に叔父さんの涙がボトボト落ちた。

涙から酒の匂いがしたのは、後にも先にもあれが最後かもしれない。

まぁ、それだけなんだが、
祝いの席ではお酒もほどほどに、つーことですな。



2009.11.5 On Air Theme 『 責任 』
先般からdaydayというバンドを作ったと番組でもお話させていただいている。このバンドは、昔three sevenという名前で、同じメンバーで活動していた。

その当時と今違うことと言えば、年齢とか聞いてる音楽とかたくさんあるんだけど、一番痛感するのが、時間。

まぁ大学生と社会人では、自由に使える時間があまりにも違い過ぎるのは確かだ。メンバー全員が揃う日も月に3日あればラッキーなほうで、おのずと一日の 練習時間も長くなる。

となると、全員でどしゃーんと音を合わせてやる練習ってのが、おそろしく貴重に思えてくるのだ。でも、なんとなく昔のノリというか、 けっこう緩いテンションで物事を進めてしまうクセが全員出てしまい、あーもったいなかったなぁなんてことにもなったりする。

それを防ごうと、G.Voのtinpeiが、高校生の初心者バンドマン向けのサイトを僕らに紹介した。

そのサイトの主はたぶん楽器店兼バンドスタジオのオーナーか何かだと思うのだが、とにかく超上から目線。そこにはこんなことが書いてあった。

「みんなでスタジオで合わせる時に、自分のパートを覚えてないとか覚えてるけど出来ないとか、まずありえない、というかバンド辞めたほうがいい。 覚えてこい、死んでも覚えてこい、出来ないなら辞めちまえ、出来るようになるまで寝ずに練習してこい」ということを、柔らかくすること無く ほぼそのまんまのテンションで文章にしていた。

この主が言いたいことは、それが高校生だろうと大人だろうとプロのミュージシャンであろうと、やるからには「責任」を持てという、 至極当たり前のことを突きつけている。でもこれってすごく大事なことなんだと、今、時間が限られる当事者の自分としては痛感するばかりなのである。

果たして、今の高校生にそのテンションが通用するかどうかは甚だ疑問ではあるが、自分の腕で音を鳴らして人様に何かを訴えかける「表現者」には、 責任は、想像以上に求められるものなのである。

とても責任とは程遠いような時分にバンドを始め、その流れで今まで来ている自分自身だけに、そのサイトを見た瞬間、いつのまにか家でスティックを握り 手の中で転がしはじめた。

責任感の無いミュージシャン、しかも更に責任感の無い大人にはなりたくない。

かっこよくなくてもいいが、かっこ悪い大人にはなってはいけないと思うのである。



2009.11.20 On Air Theme 『 波打ち際 』
波打ち際でコラムを書く、恐らくオレ一人、少なくとも今日のこの時は、間違いなくオレ一人だと思う。

だから、書くことが無い。

海は好きだが、波打ち際の行き来をまじまじと眺めるような遊び方をしていない。満潮と干潮もイマイチよくわからないくらいだから、 それについてどう書けというのか。
それでも無理矢理書いてみよう。

愛する二人が互いの名前を砂に書くなんていうエピソードをチラホラ見かけるが、その後がよく思い出せない。 そんなバカなカップルとは個人的にまず仲良くならないからだろう。
打ち寄せる波を二人眺めながら消えていく名前を見てしんみりするのか、もしくは二人の名前が海に飲まれるのを見て 「海の中でも僕らは一緒だよ」と男がロマンチックに女に言うのか。てめえらの顔を見ろ、と。麻雀で言うところの「ピンフ」と 同じくらい平凡な二人であることに違いは無く、身の程を知れと海の家で買った焼きそばを投げつけたくなる。

そしてまた焼きそば買う。

そもそも、波打ち際という言葉があること自体、おかしい。
波打ち際を意識すること自体、ロマンに溢れたストーリーに繋げよう繋げようと必死になっている証拠なのだ。『波の端っこ』で いいじゃないか。誰が作った言葉か知らんが、それは言葉で無理矢理色気を出そうとしたそいつの欺瞞以外の何物でも無い。


何だろうな、このイラっと来るフレーズ。
日本語って難しいですね。



2009.11.27 On Air Theme 『 丼 』
丼物は素晴らしい。

ご飯の上におかずが乗ってて、しかもそれが料理として世間に浸透しているところがうれしくてしょうがない。
自分は知っている。丼物が決して料理の中では一流のスターダムにのし上がることが無いことを。
でも、それでも僕らのハートと胃袋を鷲掴みにして離さないことを。

一流に成り得ないのは、どうしても行儀が悪いと思われてしまうからだ。
ご飯の上に何か乗せるというのは、どうしてもざっかけないイメージがあるらしい。でもそんなのはお行儀の良い人達だけに言わせておいて、ざっかけない僕らだけで楽しめばいい。
炊き立ての米とおかずが、見た目でも口の中でも同時に融合する丼は、まさに爆音を奏でるロックのアンサンブルそのものだ。
ロックは何度も世界のミュージックシーンを刺激してきた。でも、その時代の主役ではなかった。しかし別に、主役である必要は無い。お行儀の良い音楽と料理に、 ハートの芯から感動出来る音楽と料理をぶつけるアンチテーゼこそが、ロックと丼に与えられた使命なのだ。

カツ丼はその中でもひと際グラインドが効いていて、腹の底に響いてくる。
他の丼と違って、最後にカツで丼に貼りついた米をかき集められる。
かき集めた米をそのカツと最後に口に放り込む。
ゆっくりと米とカツのアンサンブルを楽しみながら、憎たらしい教師、上司、政治家などの顔を思い浮かべ、こんなうまいもんを食ってる瞬間だけは、少なくともオレはお前らより幸せだ、 ざまあみろ、と心の底から思う。

自分はカツ丼のおかげで今があるのかもしれない。
見た目、味、食感、どれをとっても、カツ丼は、アンチテーゼの塊だ。
カツ丼を上から見下ろすような人生なら、もうそこで終わってしまう。
常に同じ目線、もしくは下からカツ丼を見上げながら、負けるもんか、ぶっ壊してやる、絶対に勝つ、そうやって気持ちを奮い立たせる。
だから、カツ丼を食べ終えたその瞬間から頑張れる。

うな丼、鉄火丼、親子丼、色々丼があるけれど、
オレはカツ丼をゴリ押ししたい。



2009.12.4 On Air Theme 『 わがまま 』
我々男性の観点からすると、わがままを言う女は嫌いだと言う男が大半である。

つっても、男として、全くわがままを投げかけられんようになると少し寂しい気持ちにもなると思う。

イイ女とそうでない女、男それぞれに感じ方は違うと思うし、その時の気分にもよると思うが、イイ女のわがままは聞けるが そうでない女のわがままは聞けない。ただ単純に、それだけなのである。

この一文はかなりの女性を敵に回すのかもしれないが、まぁ落ち着いて。

あたしのわがまま一つさえ男は聞いてくれないという女性は、一度自分の腹にそのわがままを落としこんで考えてみるといい。 自分だったらそれが聞けるのかどうか。モノには限度がある。ようは、わがままのレベルなのだ。


例えば、寂しいから今日は仕事休んでよと朝ベッドで言うのは、ひどい。

でも、そもそもイイ女はそんなフレーズを口に出さない。

ひどいレベルのわがままを言うから、イイ女にいつまでもなれないのである。

寂しいからまた今夜会ってよ、なら、イイ女だと思う。


一つの基準でしかないと思うが、男は、ひどいわがままにどう応えるかで器が決まったりするのではないか。

既に妻帯者となった自分は、嫁も今日は休んでよなんて無茶は絶対に言わないし、独身だった過去を思い起こしても、ベッドでそんなことを 言ってくる女はいなかった。

なので想像でしか書けないのだが、おそらく、

「おまえが銭より魅力的な存在だったら休んでもいいが、まだそうは思わない」

と言いながら朝飯をむしゃむしゃ頬張ると思う。


オレはイイ男なのだろうか?



2009.12.11 On Air Theme 『 Party 』
結婚して間も無く丸4年になる自分だが、結婚当初にどうしても不慣れなことがあった。

ただいまーと靴の紐を外しながら玄関のドアを開けると、その玄関には見慣れない靴がたくさんある。うわなんじゃこりゃと驚いてリビングのほうを覗くと、 嫁の友人の皆さんが楽しそうに談笑していらっしゃる。

「今夜はホームパーティーよ」と嫁が、まるで「今夜はハンバーグよ」と同じようなテンションで言う。

こちらだってわざわざ来ていただいた客人を邪険に扱うことも出来ず、人生ゲームのイベントのように急にやってきたパーティーの中、精一杯の作り笑顔と 月9に出てくるようなありがちな3枚目キャラを演じながら、無理矢理にでもガールズトークに頭を突っ込んでいくしか無いのである。

いや、別に客人が嫌いとかじゃない。

事前に言ってほしいのである。

ホームパーティーってのは恐ろしい。なぜなら、ホスト側であるこちらの力量が試されるからだ。ヘタなことは絶対に出来ない。

どんなにうまそうな料理が並んでいても、もてなすこちらはバクバクそれを食うわけにもいかない。料理を味わう余裕が無い。

バトミントンのように飛び交うガールズトークに、ついていくのが精一杯なのである。

だから最近は、嫁も空気を読んでくれたのか、あまりホームパーティーをやらなくなった。オレが出張の時に盛大にやっているようだ。

人はみな、パーティーが好きだ。

でも、例え自分が招かれる側だったとしても、色々と気を遣うことにどうしても疲れてしまうオレは、人がたくさんいるパーティーは嫌いだ。

たくさん人がいなければいい。嫁と二人、友人と二人、二人で充分じゃないか。オレはそれも立派なパーティーだと思っている。だから、毎日がパーティーだ。



2009.12.18 On Air Theme 『 待ちわびる 』
この時期になると、年末年始の休みにしか興味が無くなる。

毎年、ココでも、そして他のところでも声を高らかに唱えているが、どうして人は年末になると慌しく動こうとするのだろうか。 正直、その波に嫌でも飲まれなければいけないのが腹立たしい。

年の瀬に働こう年の瀬に遊ぼうとするのなら普段から一生懸命働いて遊びなさいよと思いながら、苦々しい目でじっと時間が過ぎるのを見つめている。

昔は、年の瀬の雰囲気が大好きだった。10月11月の中途半端な時期が逆に嫌いで、早く12月になってほしいと思うばかりだった。

今は、どの時期、季節も、好きにはなれない。ようは、日本という国にあまり興味が無くなったのだと思う。ただ、嫌いな時期と季節だけがいたずらに増えるばかりだ。

クソみたいな政治家にこんな腐った国にしたのはお前らのせいだとテレビやパソコンに向かって罵るのはアリだと思う一方で、最近は、12月に普段の倍は働き遊ぶ周りの人々を 稀有な目で見つめるのは、実は自分だけであり、みんなそれに何の疑問も持たず、それどころかその忙しさを楽しんでいるように感じはじめ、そんなクソファッキンな世の中を 受け容れているように思えてきた。日本国民総マゾヒスト化計画は着実に浸透していた。

それに準えなかった負け組は、実は自分であったことに気づき、それをようやく腹の中に落とし込むことが出来た。周りに合わせることが出来ない自分が完敗なんだと、最近、 はっきりとわかってきた。

負けた者は負けた者らしく、もう、この国は何の期待も抱かない。

まずは、自分が耐えられないこの年の瀬が過ぎて、海外に出かける30日を、じっと待ちわびる。

そうやって、小さく時間を刻んで日々をごまかしながら、将来、海外へ移住することを、じっと待ちわびる。

勝ち組にも負け組にも、待ちわびる気持ち、そして、何が幸せなのかを選ぶ権利は、地球規模で平等であるべきだと思う。

私は、ひたすら、待ちわびる。

楽園をただ、待ちわびる。



2009.12.25 On Air Theme 『 2009年 No.1 SONG 』
とても月並みな言い方かもしれないが、今年もあっと言う間に一年が過ぎた。
個人的に一年を振り返ると、いつもの超ネガティヴ志向が功を奏してか、思ったほど悪い一年ではなかった気がする。こんだけ世間が冷え込んでいるというのに、 思ったほど悪い一年じゃなかったなんて言えるのって、どんだけネガティヴなんだとセルフ突っ込みを入れたくなる。

仕事で良かったことと言えば、喋りの仕事が増えたこと、輸入関係の仕事をするようになったこと、バンドを再結成したこと。
プライベートでは、ウチの親父が亡くなったことは非常に残念だった。でも、それはもう終わったことだし、祈ったから生き返るわけでも無い。もう既に整理がついた。
逆に友人関係は結婚出産ラッシュ。めでたいことこの上無い。
世間の冷たさとは裏腹に、個人的にはどちらかと言えば明るいニュースのほうが多かった。

右を向けば冷たい風が吹き、左を向けば水が凍りつき、でも前を向けば笑顔が自然に出てくるような出来事が多かったように感じる。不況だ不況だとメディアが騒ぎつつも、 前さえ向けば何とかなることを教えてくれた一年。みんな、それぞれが、強く生きることを学んだ一年ではなかったのだろうか。
そんな一年の中で、今年も色んな音楽が流れた。LRだけではなく、360度いろんな角度から、自分の心をすり抜けていった。

今週のFUNKAHOLICでは、その一年の間に、あなたの頭の中に流れた、もっとも心に残った曲を募集します。エピソードは、 もっとも心に残ったエピソードを教えてください。

それでは、クリスマスの夜にお会いしましょう。



2010.1.15 On Air Theme 『 寿司 』
近頃は、「回転寿司」という言葉より、「回らない寿司屋」という言葉のほうを聞くようになった。それくらい回転寿司がメジャーな存在になり、 カウンターに座って寿司下駄にネタを職人さんが一貫ずつ置いてゆく寿司屋のほうが珍しくなったからだろうか。

以前東京に旅行をした時、それこそ回らない寿司屋で食事をしたことがある。根っからの江戸っ子だと言う大将は、「最近は回転寿司に 押されっぱなしでね。なんせびっくりするくらい安いしね。こっちも大変ですよ」と苦虫を噛み潰したような顔で話してくれた。
ただ、その大将のすごいところは、「でも、最近の回転寿司はすごく美味しい。私らもびっくりしちゃうくらいだもの」と、あっさり回転寿司の 味の良さを認めてしまったところだ。
もちろん、寿司の本家本元は回らない寿司屋にこそあるものなのだろうが、普通なら例え回転寿司が美味しかったとしても、簡単には認めることは 出来ないと思う。コピーがオレらの邪魔しやがってこの野郎と思うものでは無いだろうか?

たまに自分も近所の回転寿司に行くが、昔より随分美味しくなった。価格もそれほど高くなく、お客さんの年齢層も低くなった。回転寿司は、 それこそ庶民に対して気軽に楽しめるようにと、寿司の文化を至極身近なものとして広めたのだと思う。これはおおいに評価されるべきだ。
だがしかし、それと同じように、回らない寿司屋も注目されるようになっているのである。
庶民は、じゃあ本家本元の寿司はどんな雰囲気でどんな味なんだろうかと、回転寿司に慣れることでイメージしやすくなったのである。ようは、 自分自身と、手の届かなかった存在の本家本元の寿司との間に、回転寿司がうまいこと入り込んできてくれたのである。

あの東京の寿司屋の大将は、回転寿司の存在が大きくなればなるほど、自分達本家本元の回らない寿司屋の価値が上がったということに、 気づいているのだ。大変ですよというわりには、その寿司屋はカウンターも満席で大盛況だった。そもそも、お金を使う側としては、どんなに それが美味しかろうと自分自身がイメージ出来なければ、怖くてその店になんか行けないのである。

相変わらず、外国人観光客にも人気が高い寿司。そして我々日本人庶民も、より一層寿司に対して良いイメージが作られている。不況と言われて 久しい日本だが、それを救うための担い手として、国内独自の食文化は欠かせない。
意外に、寿司そのものが日本を救うかもしれない。あの大将の、寿司を握る鮮やかな動作は、その可能性すら感じさせる、本当の 職人技だったのである。



2010.4.9 On Air Theme 『 お付き合い 』
今現在ネタコーナーでお届けしている『お前俺がホームラン打ったら手術するって約束したよな?』の、モデルとなった企業にまだ自分がいる頃、契約が取れたら、そのお客様と「これからも末永いお付き合いのほど、よろしくお願いします」と言って握手を求めるというマニュアルがあった。

ド新人の時に契約が取れて、そのマニュアル通りに握手をしようとすると、相手のお客から異様に気持ち悪がられた。たかだか月々10000円くらいのリース組んで握手なんか気持ち悪いよ~みたいに笑われた。
そりゃそうだ、うちのマニュアルがおかしいんだよなとオレも笑い、客先を出てすぐに電話で会社に報告。

「ゾス百万石です!バッチリ取れました!」
「あぁもう百万石ちゃ~ん、やっぱつーよーいー。さーすが期待のルーキーだよねぇ?」

田中邦衛にそっくりの口調で話す上司がオレを持ち上げる。

「ゾス!楽勝です!」
「うんうんうん、オッケオッケー。んで、ちゃんとお付き合いよろしくお願いしますの握手したか?」
「ゾス!してません!」
すると猫なで声だった上司が電話の向こうで一変。

「はぁ!?お前なに挨拶ハショってんだよマジで!やれっつったよな研修のときに!」
「ぞ・・・、ゾス!」
「『ゾス!』って言うってことはてめぇが挨拶しながら握手するのサボったってことだよな!?わかっててやんねぇのは確信犯じゃねえのかよ!」
「ぞ、ぞ、ゾぉぉス!」
「ゾスとか言ってねぇでさっさとお客さんとこ行ってお付き合いよろしくお願いしますって言ってこいよマジで!」

ものすごい勢いでガチャ切りされ、うわぁなんで契約取ったのにツメられてしかもまた握手しに戻んなきゃいけねんだよふざけんな、と思いながら近所の公園で時間を潰し、また上司に電話。


「ゾス!お客様にお付き合いよろしくお願いしますの握手してきました!」
「お~うおつかれさ~ん、お客さんなんつってた?」
「ゾス!気持ち悪いなぁって照れてらっしゃいました!」
「そうかそうか~、んじゃ今からそのお客さんとこ電話して確認していい?」
「・・・、はい?」
「今からそのお客さんのところに電話して、お前がちゃんとお付き合いよろしくお願いしますの握手しに来たかって電話していいかって聞いてんのよ」
「・・・、ゾス!止めたほうがいいと思います!」
「なんで?」
「お客様、今から出かけるっておっしゃってました!」
「ふーん、お前、行ってねぇだろ?」
「・・・、はい?」
「行ってねぇだろ挨拶しに。末永いお付き合いよろしくお願いしますって言いに行ってねぇんだろゴルァ!」
「ぞ、ぞぞ、ゾおぉぉぉぉおおぉス!」
「お前さっき約束したよなぁ!?なにバックレようとしてんだてめぇ!今からソッコーお客さんとこ行って全力で帰ってこいよ!」
「ゾぉおおおぉぉス!」


もちろん会社に戻ると激ヅメされた。


今週は「お付き合い」というテーマで皆さんのご機嫌を窺います。



2010.4.16 On Air Theme 『 信頼 』
その人が信頼出来る人間なのかどうか見極める方法を教えてくれとか言われたりするが、第一オレはダライ・ラマでもキリストでも無いので、その迷い人に良き道を導くどころか、んなもんオレが知りたいっスと口から白い煙を吐き出しながら応えたりする。

でもたぶん、ダライ・ラマもキリストも恐らく、誰のことも信頼出来ると応えるような気がする。彼らも、自分以外のことは憶測でしか物が言えないのではないか。
信頼出来ると思っていた相手に裏切られた時にどうすれば良いかなら、キリストもダライ・ラマもすぐに独自の教えに導いてくれるだろう。オレなら「とりあえず10倍返しね」と煙を灰皿に押し付けながら応える。

その人が信頼出来る相手かどうか考えるなんて不毛だ。それよりは、自分が人から信頼される人間なのかどうか考えたほうが良いと思う。
人を見るということは、己を見ることだ。人は己の鏡なのだ。人から信頼されたければまずは相手を信頼すること、そして相手を裏切らないこと。

それがわかってない人間が最近多いように思う。
信頼を裏切り、後ろ指をさされないように、
ひたすら自分を磨くだけだ。



2010.4.23 On Air Theme 『 忘れたい 』
忘れたいと思うこと、掃いて捨てても間に合わず、腐ってしまうほど自分の頭に残っている。幼い頃の忘れたい思い出なんて、もう30年近く自分の中にあるわけだから、それは「トラウマ」という言葉で頭の片隅にちょこんと座っている。それでもなかには、運良く忘れることが出来たものもきっとあるだろう。

忘れたい忘れたいと躍起になって嫌な思い出を本気で忘れようとすることは、恐らくそんなに難しいことでは無い。真剣に記憶から消し去ることも出来るだろう。
でもみんなそれをやらない、出来ないのは、その忘れたい思い出に関わっている「素敵な思い出」というヤツも一緒に消えてしまいそうになるからだ。
みんな、その良い思い出で、忘れたい嫌な思い出を許しているような気がする。

でも、忘れたいと思って忘れられないものというのは、多分、良かれ悪しかれ自分にとって重要なものなんだろうと思う。
実際、忘れられないすごく嫌な思い出が、あの借りは絶対に返すという気持ちとなって自分を奮い立たせたこともある。そして、それが抑止力となって自分を諌めたことだってある。
忘れたい思い出が忘れられないのなら、それに振り回されるよりは振り回してやらなければならない。思い出を噛み締めるのは結構だが、翻弄されては人生もったいないと思う。
忘れたい、と無理に実行に移すよりは、
教訓や戒めとして自分の中に留めておくのが、
案外良いのかもしれない。



2010.5.7 On Air Theme 『 大変だ 』
とある女のコがバンドで歌を歌っていて、そのバンド内で男と恋仲になってしまい、他のメンバーに迷惑をかけないためにバンドを辞めたのだが、相手の男はそのコほったらかしでバンドに夢中で、新しい女のコの歌い手さんも入りバンドは順調で、自分だけ蚊帳の外みたいで寂しい、必要とされてないとまで思ってしまう、というメールを急に頂いた。

だからどうしたらいいと思う?ではなく、寂しい、必要とされてないとまで思ってしまう、でメールは終わっているのである。

オレにどうしてほしいのだろうか。
ぶっちゃけほったらかそうかとも思ったのだが、とりあえず、「本当に必要とされてないのではないでしょうか」的な内容のメールを送っておいた。男と女の関係もバンドの人間関係も、至極シビアで一寸先は闇なのだ、と。

そのコはオレの一個下だから、そのバンドの人々もだいたい同じ年代だと仮定すると、
30代前半にもなれば、社会的にある程度重要なポジションに着く頃で、かつその中で時間作ってバンドみたいな割に合わない趣味に没頭するわけだから、思った以上に大変なのである。
それに、30過ぎてバンドやってますなんつったら、正直世間では浮きまくる。だから下手な遊び半分の音楽は出来ないのだ。そこにガチな雰囲気が無ければ、それは小学生の出し物にも劣るのだ。
彼も、バンドのメンバーも、必死なのである。大変なのだ。その女のコに対して「お前なんかいらねぇ」では無いと思う。でも、必要としていないのは間違い無い気がする。いちいち他人に構っている暇は無いのだ。

ただ、その女のコがかわいそうなのは、
大変だ大変だと言いながらも音楽やって、他人から拍手を貰った時、他人から音を評価してもらえた時の喜びは、何事にも替えがたいものがある。 それを一時の惚れた腫れたで台無しにしてしまったのは、気の毒な話である。

人は、大変だ、とため息混じりに下を向く。
しかし、それが報われた時はいい笑顔に変わる。
大変だ、と吐き続けるのは、喜びの助走に過ぎないのだ。
だからもっと、頑張れる。



2010.5.14 On Air Theme 『 ファミレス 』
ファミレスは自分にとって、良い思い出が詰まっている。
というのも、ドリンク飲み放題で、しかも話し相手もシラフと来れば、ちびちびとコーヒーをやりながら、ようやくまともな話が出来るからだ。
もちろんファミレスでも酒は飲めるのかもしれないが、自分が知る誰かに言わせればファミレスで飲む酒なんてのはまずくてしょうがないらしい。 あんな健康的な雰囲気で酒を飲んだところで酔い辛いと言うのだ。

そうだ。ファミレスは至って健康的だったのだ。
レストランと言えば、ごく普通の家族、例えば、両親に小学生の子供二人、みたいなどこででも見かける家族が休日の夜に食事する、これがあるべき姿だったようにも思う。
しかし、ファミレスが建ちまくり、価格競争を繰り返すことにより、都心部ではごく普通の家族がレストランで食事をすることから離れてしまう。代わりに、1人、2人の少人数で訪れる客、もしくは10代後半~20代前半の団体客が多くなった。

ファミレスが当たり前になった今、レストランらしいレストランが街から消え、喫茶店感覚のレストラン=ファミレス ばかりになってしまったのである。
レストランとしての名残があるのは、地方部のファミレスである。そこにはまだ家族連れの姿がチラホラ見られる。しかし、そこで味わう料理が、その家族の子供にとって「ご馳走だ」というのは少し寂しい気もする。こじつけかもしれないが、今のこのファミレスの状態が、健康的かと言われれば、果たしてどうかと思う。

プライベートでも仕事でも、面白い話や大事な話をする時に、自分はファミレスをよく使う。だから今のファミレスの在り方はむしろ歓迎だ。
しかし、今、普通の家族連れが贅沢な食事をしようと言う時に、「ご馳走の出るレストラン」って世間から無くなってしまったような気がするのだ。
ファミレスは、そういうご馳走を食べたいと思う家族を、ターゲットにしていない証拠でもある。
家計が苦しいから、わざわざ外食でご馳走を食べることが減ったのか。
それとも、別の何かで贅沢をしているのだろうか。
幼少時代、家族揃って外食をした覚えの無い自分が言うのも何だが、
家族揃ってレストランで贅沢をする、このシーンが徐々に世の中から消えていくのは、
とても残念なのである。

ファミレスも、これ以上質と値段を落とすことは危険だと感じているだろう。
美味いファミレスなら、多少他より値段が高くても、オレは喜んで利用する。
勇気を持って、値段と質を上げる努力をしてみてはいかがだろうか。



2010.5.28 On Air Theme 『 肩こり 』
以前、ちょっと得た知識をしたり顔満載で書くと、
肩こりに悩まされる人にありがちなのが、こった部分だけを集中的に揉みほぐす。これ実はあんまり意味が無い。そりゃその時だけは楽になるかもしれない。でも、根本的な解決にはならない。
重要なのは、なぜこってしまうのか、ということである。ようは、血流やリンパの流れがこっている部分において滞っているわけだ。その滞った流れを正常に戻してあげないといけない。
ということは、肩全体を根気よくマッサージする必要がある。身体の前方から後方に至るまで、肩の周りをゆっくりマッサージすると、ある程度の肩こりからは解消されるはずである。
肩こりに悩ませられる本人だけではとても解決できない問題だ。家族や知人にマッサージしてもらうか、整骨院や整体師のところに行くしか無い。

その部分だけを集中的に揉んでも意味は無い、というフレーズが、今日本が抱えている問題とカブる。
普天間基地移設問題や、口蹄疫の問題、これはそれぞれ大変重要な課題である。
しかし、それをやっとの思いで解決しても、他に解決しなきゃいけない問題は腐るほどある。
上の二つの対応が遅れたことで、政府はひどいバッシングを世間から受けているが、
バッシングすべきは、その問題ばかりに力を注いでおり、他がどんどん後回しになっていることだと思う。
全体を普段からケアしていれば、上の問題は両者ともに、ここまで泥沼化することは無かったのかもしれない。
もっともっと深刻な問題がこれから降りかかるのは間違い無い。
鳩山が精神的に、肉体的に壊れるのは、もはや時間の問題だ。周りは早くそれに気づいて、休ませるなり辞めさせるなりしたほうがいい。
クソみたいな政治に付き合わされるのは腹が立つが、
人が壊れていく様を例え間接的とはいえ見なきゃならないのは、趣味では無い。
肩こりくらいで済むような、まともな世の中になってほしいものだ。



2010.6.11 On Air Theme 『 育てる 』
一人暮らしとなった自分の母親は、毎日することがないからと、昨年より家庭菜園をしている。ずっとウン十年も働いてきた人が急に暇になるのだから、家庭菜園でもやってみようと思うのはごく自然である。多少なりとも身体は動けば健康にもいいし、それはそれでいいんじゃないかと思った。
元来の生真面目な母親の性格からか、毎週のように野菜が届く。まるでスーパーに野菜を卸す業者のように、ダンボールにたくさんの野菜を敷き詰めて送ってくる。野菜を育てることに今並々ならぬ情熱を注いでいる。

意外と気づかなかったことなんだが、育つ、と、育てる、は違う。
育てることは、外から手が加えられる。野菜で言えば水をやったり肥料をやったり土を耕したり。種だけ蒔いて放っておいても野菜は勝手に出来上がるのかもしれないが、「育つ」に、外から色を加えるのだ。人間の愛情という色を注ぐことで美味しい野菜になる。
母親に育てられた自分は、いよいよ以て30代半ばを迎えようとしている。このうだつの上がらなさはどうだ。世間や身の周りは納得の行かないことだらけで、苦虫を噛み潰す日々だ。
同じく、今は亡き父親が自分を育てる際、よく言った言葉が、「手柄もヘマも自分次第。恩返しも仇討ちも自分次第。全部経験してこそ本当の男」というやつだ。
結局、納得出来ない環境は自分が作っているということだ。そこで黙りこくっては本当の大人の男とは言えないということなのだろう。
それだけわかっているだけでも、立派に育ててくれたと、今さらながらに思うのである。それ以上のことを両親に望むのは虫が良すぎるというものだ。
ほんの少しの手柄とたくさんのヘマがあり、返せていない恩と討ててない仇で出来ている今の自分だから、うだつが上がらないのは当たり前だ。 全部、一つ残らずやりつくす。それが人生なのだろう。



2010.6.18 On Air Theme 『 中華料理 』
本場の中華料理、いわゆる、皆さんが想像するような、円卓に豪華な料理が並ぶような、あの手のベタな中華料理というものを何度か食べさせてもらったことがある。
うまいかまずいかで言うと、うまい。確かにうまい。でも、味付けそのものはやはり中国人向けに作られているので、毎日それを食べていいですよと言われても正直そんなにうれしくはない。

面白いのは、マナーだ。
基本、出されたものは全て残さず食べるのが日本のマナーだとするならば、中国では、むしろ残すのがマナーである。
客人として招かれた自分は、最初、わけもわからず出すものをひたすら食べた。特に、そういう高級な中華料理店の炒飯は確かにうまい。珍しそうな料理はそこそこに手をつけ、あとはひたすら炒飯を頬張っていた。
炒飯の皿がカラになると、次の炒飯が運ばれてくる。
元来食いしん坊かつ止められるまで延々と食い続けることが出来る自分は、ひたすら出された炒飯を食っていた。
そこにいた人達は仕事の話や世間話を中国語で交わしながら食事をしていたのだが、オレがあまりにも炒飯をひたすら食い続けるので、がやがや騒ぎ始めた。
みんなどんどん笑顔になり、食え、もっと食え、と騒ぎたてた。

ように見えた。

もうさすがに食えんというとこまで来て店を出て、タクシーの中で苦しい苦しい腹パンパンやと笑う自分の横で、通訳が同じく笑顔で「中国では残すのがマナーなのです。みんな、あなたが炒飯をいつまでも食べ続けるから笑ってましたよ」と言ってきた。
こちとら、腹が膨れたのも忘れて、途端に赤面である。

この何年かの間に中国も急激な経済成長を遂げ、そんな高級な中華料理も富裕層の一部だけのものではなくなり、庶民にも手が出るようになったらしい。
でも、感想は自分と同じで、ああ、確かに美味しいけど、毎日はちょっとねぇ、という、当たり前っちゃ当たり前のものなのだそうだ。
その、かつての中流層が、高級中華料理よりも洋食や簡単なファーストフードなどを好むことから、バブリーな中華料理店は、今どうやって顧客を手放さないか四苦八苦しているとも聞いたことがある。

中華料理こそ今も昔も未来も変わらないものだと思っていたが、
経済は、4000年の歴史をもあっさり変えてしまうのである。

高級な中華料理よりもむしろ自分は、
飲茶が好きだ。あれもれっきとした中華料理だ。
飲茶なら毎日でもいい。シュウマイが主食でも別に問題無い。
FUNKAHOLICも、皆さんにとって、飲茶のような存在になれればいいと思う。



2010.6.18 On Air Theme 『 中華料理 』
この世のこと全てが運任せなんてもちろん言わない。だがしかし、努力や、積み重ねて来た苦労の、最後の仕上げとして用いられるのは運だと思う。
物事の最後だけを見つめるのならば、幸運と不運に一喜一憂するのもいいだろう。しかし、努力や苦労のプロセスまで肯定否定するほど、運は偉い存在では無い。
自分自身のことを振り返ってみた時、努力や苦労をしたのかもしれない。かもしれないと中途半端なことを書くのは、自分ではそのつもりでは無くても、人がそれを努力の賜物だとか苦労した結果がついてきているとか、ありがたい言葉をかけてくれるからだ。
これだけ苦労したのに、とか、これだけ努力したのに報われないだなんて、みたいな、目も当てられぬような悲惨な状況になったことが無い自分は、恐らくかなり高い確率で幸運を引き続けている。

自分と同じような境遇の人々が、それこそ悲惨な状況なってしまうところを見ることが増えた。幸運を引けず、最後のところで悲しい思いをしてしまう人々が増えた。
その人の努力や苦労だけではどうにもならないことが増えたということだ。プロセス云々よりはフィニッシュだけを求められる世の中になってきたからだ。
運任せな世の中になりつつある。幸運を、実力で呼び込むことが難しくなっている気がする。

幸運は必ずしも皆に与えられるものでは無いけど、
努力した人、苦労した人が幸運を掴みやすいような世の中に早く戻ってくれることを切に願う。



2010.7.2 On Air Theme 『 衝撃 』
サッカーワールドカップで、日本がベスト16まで勝ち進んだ。惜しくも8強は逃したが、大会を通して素晴らしいゲームを我々に見せてくれた。

別に今回のワールドカップで初めて見たわけでは無いが、無回転フリーキックというのがある。
プレーヤーによって蹴られたボールが、回転をすることなく飛んで行く。そして空気抵抗を受けながら変化する。その変化が誰にも予測出来ないことから、『魔球』とも呼ばれる。

魔球というのはナイスなネーミングである。というのは、ボールがどう変化するか誰にも予測出来ないなんて、ひと昔前はホントに漫画の世界での話だったからだ。それが、我々が住む実世界において、現実に何人かの選手が公式戦でこの無回転フリーキックでゴールを決めている。

ご存知の通り、日本代表の本田はこの無回転フリーキックによってデンマーク戦でゴールを奪った。
間違いなく、日本に衝撃が走った。
普段サッカーを観ない人々にとっても、あんな遠い位置からゴールが決まるのも衝撃だったし、
サッカーを観る人々にとっても、ワールドカップの本戦で、まさか無回転を、日本の本田がホントに決めてしまう、これはもう、ヘタなサッカー小説の中での話が現実に起こってしまったので、ただひたすら驚くしか無かったのだ。

本田の一発が与えたインパクトは世界中を駆けた。まだワールドカップは終わってはいないが、それでも間違いなく今回のベストゴールに取り上げられる。本田が与えた衝撃は、世界中のサッカーファンの間を駆け巡ったのだ。

予選敗退、しかも散々な結果で、の予想を覆した日本は、賞賛に値する。
しかし、またベスト16の壁に跳ね返されたのも事実である。
今後は、キック一発のインパクトではなく、チーム全体で世界中に衝撃を与えてほしいと思う。その結果が、ベスト8、ベスト4へと繋がって行く。
素晴らしい夢を見させてくれた日本代表に感謝したい。



2010.7.9 On Air Theme 『 どん底 』
どん底と聞けば確かに聞こえは悪い。しかし、最近はこの言葉が自分にとってモチベーションになっていることも確かである。

独身のころに、本当に金が無くて残り一週間を5000円で過ごさなきゃならん時があった。一日1000円も使えない計算である。
チビチビと小銭を計算しながら、食い物を買うたびに追い詰められるような気分になる。
この、次の入金日まで自分を押し殺すように生きるのが凄くイヤで、3000円を切ったあたりでパチンコに出かけて、そしてすってんてんになった。
どん底になると開き直れるのだ。人に借金し、ラーメンと白飯を腹一杯掻きこんで鋭気を養う。もちろん借金は良くないが、こうすることで頭の回転も上がるし、生きている充実感がある。

どん底を迎えれば、後は上がる一方なのだ。何もしなければもちろん上がらないが、動けば動くほど、結果は容易に得られることが多い。
FUNKAHOLICがもうすぐ終わってしまうことに、がっかりしている方もいらっしゃると思う。もちろん残念ではあるが、私自身は「やっと百万石から解放される」と前向きに捉えることにしている。またパーソナリティをやる確率は限りなく低いし、今すぐにまたどこか別の場所でやろうとも全く考えていない。
局との方針が合わず、合わせるつもりも無く、ご他聞に漏れず番組終了が決定しどん底を迎えているわけだが、身軽になった分だけ、またチャンスが訪れる。視聴者の皆さんは、また違う素晴らしい番組や楽しみを見つけることが出来る。

どん底、いい響きだ。
我々を切ったことをひどく後悔させるほどに、
一番下からただひたすら上を向くのである。



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