百万石の次回予告Column 001

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2008.3.28 On Air Theme 『 Kiss 』
なんだそれ超うらやましいといつも思うのが、世界ウルルン滞在記で綺麗どころの女優さんが1週間か2週間くらいの すっとこどっこいなホームステイを終えて現地の家族と最後に別れる時に、そこの父親がものすごい勢いで女優さんと ハグした上にブチューッとほっぺにキスし、涙ナミダのセィーユーアゲイン、でもスタジオで泣いてるのは徳光さんと 久本雅美の二人だけ、ああ違う話が逸れたねキスだよキス、そう、小生はあの外国のお父さん方のキスの「間合い」と いうヤツにほとほと感心するのである。
あの番組では、たぶん日本で言うところのむちゃくちゃ田舎の外れ街みたいなところに赴いて生活するんだろうけど、 その日本の田舎に住む老夫婦がナタリーポートマンをホームステイに迎えて帰り際に親父さんがナタリーのほっぺにブチューッってのは、 日本から米が無くなるくらいに想像できない光景なのである。なぜか。きっと、日本人って唇が ものすごく性的に敏感なんじゃないだろうか。一気に内容がピンク色に展開して申し訳無いんだが、唇の感度の良さも さることながら、日本人はドスケベなのである。ハグしただけで、もう最後の最後まで簡単に想像してしまい、おいそれと ハグとかキスとかしようもんなら、ハートの中では歯止めが効かずに自分で勝手にキリキリ舞いになってしまうのである。 良い歳こいたお父さん方が、そう何度もキリキリ舞いになるわけにはいかない。だって体力的にも精神的にもきついんだもの。
そうだな、書いてて気付いたんだけど、間合いっつーより捉え方だな、違うのは。そういえばもう4,5年前くらいになるか、 北朝鮮の拉致被害者で、日本(だったっけ?)で感動的な再会を果たした曽我ひとみさんジェンキンスさん夫妻のキスは 全然いやらしくなかったなぁ。あれは見る人の涙を誘った。曽我さんは日本人なんだけど、あの二人のキスには、日本と 外国の文化の壁ってヤツを懇々と感じたものだ。
食文化とか住宅様式がどれだけ欧米化されようとも、このスキンシップ、ことさらキスってのは、どこまで行っても諸外国との 溝が狭まることは無いんじゃないだろうか。陸上の短距離並にこの差はデカイと思うのである。

あと最後に、キスが上手いとか下手とかいろいろ世間で言われるじゃあないですか?皆さんどう思います?小生は過去に上手いとも 下手ともどちらも言われたことあるんですけど、あれって人間の指紋とおんなじくらい千差万別だと思うんですよ。それを何か 言ったもん勝ちみたいなテンションで下手だとか上手いとか言うのは、何を基準にして言っているのか、と。仮に言ったお前の 基準だとしたら、お前は日本総合キス監査機構のお偉いさんなんだな、そうなんだな、と小一時間問いつめたい衝動に駆られる。
下手と言われた皆さん、忘れましょう。上手いと言われた皆さん、驕ることなかれ。キスの上手下手なんて、エルドラード並の まやかしなのである。



2008.3.21 On Air Theme 『コンビニ』
つい最近、我が家の近所にコンビニが出来た。
真新しいコンビニっていうのは、まだ棚も綺麗だし床もピカピカだし、
雑誌の陳列の仕方なんかも崩れてなくて、利用する分には非常に気持ちが良い。何もかもが新しいのである。
でももっと新しいというか新鮮なのが、そこで働く従業員の皆さんだ。
まだ仕事に慣れていないというか変に擦れていないというか、接客のスピードは遅いんだけど、懇切丁寧な応対をしてくれる。
そのコンビニの中でも一際目立つのが、御歳60、よもすると70歳近いであろう男性の従業員さんだ。
見ていてこちらが助けたくなるくらいに、動きやレジ捌きがたどたどしいのである。

そう言えば増えたな、年輩のコンビニ店員さん。
コンビニの店員と言えば学生さんやフリーターさんの専売特許だなんて思っていた。
地域や店によっては、例えばライブハウスやスタジオの近くにあるコンビニなんて、
ピンク色の頭に顔にはピアス4つみたいなお兄さんやお姉さんがもの凄い速さで肉まんを袋に入れていたのを見たもんだ。
それがいつしか主婦に変わり、外国人留学生になり、そして定年を迎えたお父さん方になってきた。

小生はその近所のコンビニではせいぜい競馬新聞を買ったり会社で食べる朝飯を
買ったりするくらいだから、そんなに難しい客では無い。
その老人もたどたどしいながらも応対してくれる。
でも、宅急便だったり、店内の機械でライブのチケットを買ったりできるサービス、いわゆるイレギュラーなサービスになると、
なかなかその老人もスムーズに対応とはいかなくなる。

ついこないだの朝方、そんな場面に出くわした。
ええと、あのー、こ、これを・・・・・、いやちが、あれぇ?ちょ、ちょっとまって・・・・いただけますかごめんなさいね、
えーと、こ・れ・を押すと・・・・・、あら、えーと、なんて言いながらレジと格闘している老人。そりゃわからなくもなるだろう。
今年30を迎えた小生でさえ、いよいよ最新の携帯電話の機能にはついていけなくなってきた気がするのにだ、
その老人が30を迎えた頃ってのはテレビもカラーだったかどうか怪しい時代である。
レジが液晶になりバーコードスキャンで何でも出来てしまうだなんて考えもしなかっただろうし、今この時、
その現代コンビニ戦争の中でシステム構築された「最ッ新ッ型POSデーッタマッシーン」に真摯に向き合うだけでも、
小生は拍手を送りたかったのである。

でもだ、その老人の目の前にいた40歳くらいのおばちゃん、いわゆる客だ、そのおばちゃん、何を思ったか「ちょっと早く、早くしてよ」と。
カチンと来た。別に自分には関係無いことだけど、無性に腹が立った。

店を出てぶつぶつ独り言を呟く。
あのなぁおばさん、ここはさ、コンビニなわけよ。コンビニってわかるか?コンビニってのはさ、便利なんだよ。
雨の日も風の日も向こう3軒隣が火事になろうとも、街が寝静まった深夜でも、
野良ネコのダニエルとジェシーが逢瀬を重ねる朝焼け間近でも、あんたの旦那がキャバクラで姉ちゃんの乳もんどる時もだよ、
おんーなじサービスをしてくれるべんーりな街のホットステーションなわけだよ。
おばさんが今そうやって「つまらないものですが」ってお返しか何かに送ろうとしてる本当にマジでつまらないものでもさ、
送れちゃうわけじゃん、ここで。
あんたココで送れなかったらどこに行くんだよ?ん?街の外れのクロネコヤマトの配送センターまで行かなくちゃあならない。
あんたがそのつまらない贈り物をするだけで、どんだけの人が汗と涙を流しているか少しもわかっちゃあいない。
じゃないと出てこないんだよ、「早くしてよ」なんてセリフわ。コンビニにいちゃもん付けるくらいだから、
普段はデパートでお買い物ですか?んじゃデパート行けよ。その老人の10倍は早くサービスしてくれるから。

もう、コンビニのサービスも頭打ちの現状である。
スーパーマーケットやディスカウントショップやドラッグストア、ひいてはマクドナルドまで24時間営業を始めた今、
これからのコンビニは「コストダウン」、いわゆる営業時間短縮に乗り出し、来客が少ない時間のコストを削減する動きに変わると思う。
時間的な部分でも、これ以上のサービスは、求めづらいと小生は思うのだ。

だって、いくら仕事とはいえ、小生はあのご老人を、深夜3時とか4時とかにレジに立たせたくは無いし、
ゴルフ雑誌やジャンプ、DVD付録がついたエッチ本を陳列させたくは無いのである。

日本中、だいたいどこにでもあるコンビニエンスストア、所違えば、けっこう人によって捉え方が違うと思う。



2008.3.14 On Air Theme 『キッチン』
こう、のっけから愚痴を言うのもどうかと思うが、いつから台所を「キッチン」と呼ぶようになったのだろう。気に入らない。
だいたい、何でもかんでも横文字にすりゃあ言いってもんでも無い。確かに、横文字にすることで印象が良くなったものもある。
例えばトイレとか。「便所」ってのはどうも濁音の響きもあって良い印象を与えないものがあるから、まぁそんなんはわかる。
レストランとかブランドショップなんかで「便所はあちらでございます」はさすがにまずい気はする。
でも、キッチンってのは別に「台所」でもいいんじゃないかと思う。
あれか、これも濁音が2つも入ってるからキッチンなんて言い方に変わっていったのだろうか?

マジな話をすると、恐らく日本の住宅様式が欧米化されたことが一番大きいんだろう。
床が板張りで、水回りにはホーローの白いタイルが施してあり、そこを歩くたびに床が軋む音が響き、
蓚酸の洗い桶が流しの真ん中にどかんとおわしますような、かつ無造作に大根が3本も4本も置かれているような「台所」というのは、
大小の規模を問わずほとんど見なくなった。
穿った見方だと承知の上で書けば、「台所」で作ったみそ汁と「キッチン」で作ったみそ汁は、
台所で作ったみそ汁のほうがうまい気がする。逆にコーンポタージュなんてのは「キッチン」で作ったほうがうまいだろう。
でもそもそも、台所に立つお母さんは最初から「コーンポタージュ」を作らない。作り方さえしらない。たぶん。

20年30年前に比べてずっとおしゃれになり、便利になった「キッチン」だが、料理の「簡素化」だけでなく
「食の簡素化」まで進めてしまったのではないのか。
ちゃんと料理が出来ない主婦の皆さんも増えていると聞く。料理が出来ても忙しいからどうしても簡単なものになってしまうというのも、
わからないでも無い。
でも、本来大事である「食」というものを果たして、簡素に、おしゃれにする必要があったのだろうか?
珍しくまともなことを書いているのでいまいちペンが進まないが、教育を今一度考えようと言うのもおおいに結構だが、
本来最初に見直すべきは「食育」である。朝飯がスナック菓子なんて、子供に対して遠まわしにすくすく育つなと言っているようなもんだ。
小生は鍵っ子だった。テーブルの上にはいつも500円玉が置いてあって、近所のコンビニでおにぎりやカップラーメンを買っていた。
ほらみろこの体たらく。こんな大人を増やしたくないだろう日本も。だったら食育をまず見直せっての。
これを読んでいる「キッチン」に立つお母さん方には、本来の料理をする意味というのを、
少しでも良いから今一度考えて頂ければ幸いである。
ちなみにうちの実家には、昔ながらの「台所」が今でも残っている。幼い頃、その実家で母親が台所へごくたまに立つ姿が楽しみで、
料理が出来るまでひたすら母の背中を見つめていたのを思い出す。

余談だが、昔音楽やってる時に、キッチンドリンカーズだかキッチンドランカーズだかそんな名前のビジュアルバンドの皆さんがいて、
「なんでキッチンドリンカーズなんですか?台所酒飲みーズでいいじゃないですか」と真顔で言ったら本気で怒られた。
けっこうビジュアルやってる皆さんってのは、冗談が通じない人が多い。



2008.3.7 On Air Theme 『かぜ』
今でこそ風邪をこじらせども、看て世話をしてくれるワイフ(ロス疑惑風に)がいるのでそこまで往生することも無くなったが、
逆にうつしてしまっては大変だと気を遣って疲れてしまうこともある。
こと我が家においては大黒柱は小生ではなくワイフ(ロス疑惑風に)なので、
稼ぎが悪い上に風邪まで引いてしまって普段より崩れた顔を更に上げれなくなってしまう。

本当のところ風邪ひいて一番辛いのは一人暮らしをしている方々であると思う。
咳をすれどもそれはいたずらに天井から自分に跳ね返り、モルタル質の壁のしわの数をずっと数えるしかなくなってくる。
咳をしても一人、
でも腹話術をすれば二人、
もうちょっと頑張ってエアギターで四人、
人形やメンバーがいれば風邪なんか怖くないぜベイべー、身体弱くてもいつもロックだけは俺達の味方だったよな、
と一人漫談を散々天井に向かってやったあげく、2M離れたトイレに行くのにものすごく苦労して無理矢理現実に戻らされるのである。
なんて後ろ向きなんだろう。

今年はよく風邪を引いた。うつす風邪あればうつされる風邪もあった。
まだ、うつしうつされる風邪があるだけ、人の温もりを感じる。誰とも知らない風邪を貰い独りで遣り過ごすほど、寒くて冷たいものは無い。

こんなことを書いているうちに、ワイフ(ロス疑惑風に)が風邪をひいたと言ってきた。
ここぞとばかりに小生は世話をする。こんな時でしかポイントは稼げない。
乾いた咳を横耳に感じながら、冷たい「風」に揺れる濡れたTシャツを眺めている。



2008.2.29 Theme 『冬』
いやぁあったかい。
すいません、小生の中では春ですよもう。今日は楽しかったなぁ。仕事じゃないみたいだったもんなぁ。

実は、この原稿を九州本土の最南端、鹿児島県南九州市は頴娃町というところにあるホテルで書いている。
枕崎と指宿の間くらいにあるこの街は、国道沿いにずーっとヤシの木が植えられていて、
これでもかというくらいに南国の雰囲気が漂っている。海の向こうは島だ。景色がむちゃくちゃ良い。コンビニも無い。
現地の人が喋る鹿児島弁もイマイチ理解出来ない。まるで海外である。

ここに来たのは日曜日だったんだが、我が家がある福岡は吹雪いていた。車を取りにスーツケースを転がしながら駐車場に行くのも
恨めしくて、無駄に缶コーヒーを2本も買ってしまった。熊本あたりを通り過ぎる頃に2本目を開けたらすでに冷たくなってて
更にテンションが下がった。でも南下するにつれ徐々に景色が様変わりして行き、車を降りた瞬間は思わず顔が綻んだ。

齢三十を迎え、少しずつ冬が嫌いになっていっている。
いや、正確に言えば「冬に弱くなっていっている」が正しい。

乾燥して肌は荒れるわ寒くて身体の自由は効かないわ年末年始が絡むから忙しいわ風邪ひきやすくなるわ、
これだけで言えばあんまし良いこと無い気がする。あることなすこと全て投げ出して冬眠してしまいたい、と大晦日あたりに
呟いていたのを思い出した。

大学生の時までは冬が大好きだった。ライブ、パーティー、忘年会新年会、冬休み、まさに贅の限りを尽したような毎日。
金なんか無くてもぜい肉とダウンジャケットとひっきり無しに続くイベントのおかげで、雪が舞っても大汗をかいていたもんだ。

あの頃から肉は削ぎ落とされ(まだ充分残っとるけど)、時間的に余裕も無くなり、寒さと忙しさで小生のスタミナをじわじわと
奪っていった冬が、暦のうえではもうすぐ終わる。春はすぐそこまで来ている。
でも、人は余裕がある時よりも、追い詰められ苦しい時のほうが、いつも以上の力を発揮することが多いんじゃないだろうか。
いや、一概に冬が追い詰められ苦しいもんとはもちろん言わないが、そりゃ夏のほうが身体は動くし気持ちもおおらかになりはしないか?
世間に蔓延るあらゆる産業音楽や文学などは、得てして冬をテーマにしたものが迎合されやすい気がする。表現する側の、寒さに相まった
ネガティブな側面が、受け手の心に響くんじゃないのかな、と勝手に思っているんだが皆さんはどうだろう?
個人的に口惜しいのは、そんな何かを生み出すのに都合が良い冬に、今年ばかりは身体も時間も追い詰められすぎて、
これまたびっくりするくらいになーんにもアイデアとか作品とかを生み出せなかったことだ。

この南国の街には月末までいる。てことは、帰る頃には福岡にも春が来ている。
よし、逃げ切った。さよなら冬。



2008.2.22 Theme 『くつ』
会社勤めの仕事を終えて自由になれば、最近は徒歩での帰宅を選ぶ。
職場から家までの時間がだいたい1時間くらいで、考え事をしたり軽い運動としてはちょうど良いのだ。
「考え事って時間が無いから普段あんまりしないんだよね。だから一人で歩くこの1時間は凄く僕にとって貴重な時間なんだ」
なんてことをココで書ければ小生も大した色男であるが、実際は出来もしない物真似を練習したり、
給料日やギャラが振り込まれる日までに今の残高でどうやって凌ぎ切るかを考え抜いてみたりと、艶っぽさのカケラも無い。

一人で歩く時は、よく長渕剛の物真似を練習している。
普段はブーツを履くことが多い小生が、新幹線のガード下を、そのまた更に下のアスファルトを見ながら歩けば、
大概「コツコツ」という音が耳に響き、どうしても「とんぼ」のメロディが頭に流れてくるのである。
これだけでもどんだけ小生が俗物の極みにあるかがおわかり頂けるかと思う。実に簡単な男である。
でも簡単とは言え一筋縄ではいかないところもあり、小生が本気で長渕剛の物真似をしようとするとどうしても
浜田省吾になってしまい、いつしか「とんぼ」が「もう一つの土曜日」に替わり、
最後には浜田省吾が田中邦衛に替わっている。以前から思っていたことだが、田中邦衛と浜田省吾は語り口が似てはいまいか。
北の国からの黒板五郎が「ゆ・う・べ〜ね・むーれずにー、な・い・てーいーたん・だろー」と歌えば、
蛍に向かって「あさめしー、できてるぞ」と続けたくなってしまい、中島朋子の物真似が全く出来ない小生は
そこでようやく大団円を迎え、都市高速道路をうんしょと支える柱を信号機越しに眺めるのである。

憶測だけで物を書けば、だが、
きっと「とんぼ」を書いた時の長渕剛は主にエナメル地の靴を履き、
浜田省吾はおそらくスニーカーを愛用していたんじゃないだろうか。
黒板五郎に関しては、ゴム長靴以外の靴を身に着けていた記憶が無い。
エナメル地の靴がコツコツと音を鳴らすには、踵から豪快に地面を踏まなければそんな音はしない。
普通なら「カッカッ」じゃないか?長渕自身の、当時のノリに乗って自信満々に道を歩いていた情景が何となく窺える。
彼のことは好きでも嫌いでも無いけど、本当に凄い人だとは思う。今実際に喧嘩しても勝てないと思う。
俺は人生で一番脂が乗っている時期にエナメル地の靴を履いて天下の往来を闊歩していた人とは、むしろ最初から喧嘩したくない。

エナメル地の靴やスニーカーや長靴は、踏みしめて歩く音もまるで違うし、そこに刻まれるその人の足跡は、
形も意味も随分と違うのである。「お洒落は足元から」という言葉があり、小生はこの言葉にもちろん賛成であるが、
ここであえて、長い前置きをした上で似つかわしくない艶っぽいことを言えば、「人生は足元に」という言葉が浮かび上がる。

花の都大東京に憧れた歌を長靴をずっと履いていては絶対に書けないだろう。
薄っぺらのボストンバッグがどんだけ北に向かったとしても、それは果たして富良野まで無事に辿り着いたかどうかは
甚だ疑問が残るのだ。同じ靴でもエナメル地とゴム長靴では、相容れないところがある。
そう、人それぞれが歩む人生のように。

今週は「靴」というテーマで、皆さんのエピソードや思い浮かぶ楽曲を探っていこうと思う。

だからって小生の靴のテーマ曲は、「とんぼ」にはしないんだけど。



2008.4.18 On Air Theme 『ギャンブル』
ギャンブルって決して身銭をぶち込んで懐を肥やすか削るかだけのものでは無いと自分は思っている。
誰だって自分の懐は削られたく無いのが正直なところで、削られずに、かつ肥やすにはどうしたら良いかを真剣に考える。 その真剣に考えるプロセスこそ、本当のギャンブルの醍醐味があるわけだ。


よくテレビなどで、人生の成功者たる人が「あの時が私の分岐点でした」と晴れやかな顔で語っているのを見かけるけど、 その人達は分岐点に立たされた時にギャンブルしているのである。もしそのギャンブルに失敗していたなら、 そのテレビに出るどころか何気ない日常の中で人様の前に出ることすら出来ないほどボロボロになった可能性だってあるわけだ。
もっと簡単に言えば、日々の悩みなんてのは全てギャンブルじゃないのだろうか。人はなぜ悩むかというと、 その行動を起こすことで背負うかもしれないリスクと、得られるリターンを天秤にかけている。自分の頭の中で何度も シミュレーションする。自分で答えが出せないなら人に聞いたり本やネットで調べる。勝負に出るのか出ないのか、 何度も自分の心の鏡と向き合う。
俗に世間で言うところのギャンブルを否定する人達も、実は何度もギャンブルしているんだということだ。

オレ自身がどっぷり嵌ったギャンブルは競馬なんだけど、ギャンブルと呼ばれるものは一通り経験させて頂いた。 もちろんそれぞれに特徴や傾向があるんだけど、根本的には、自分と何度も向き合うことに変わりは無い。
こと競馬に限ったことで言えば、だいたい年間で70%〜80%の回収率(例えば10000円投資してたら7000円〜8000円回収していると いうこと)で推移し、年間によって金額は違えど、そりゃまぁそれなりの「授業料」を払っている。 でも、競馬における良い ドラマもたくさん見ることが出来たし、かっこいいジョッキーの生き様なんてのも見させて頂いたし、競馬で出来た友人も たくさん出来た。そして、自分の心と向き合うことに強くなったと思う。


原点に立ち返って、身銭を切るギャンブルの話をすれば、それこそ借金してまでギャンブルして、人生を気持ち良いくらいに 棒に振る人もいれば自分の小遣いの中で熱くなる人もいる。そりゃリミッターを設けずにバカみたいにデカい金額でギャンブル したほうがアドレナリンが半端じゃなく脳内で分泌されるし、勝った時に金額も大きい。でも、もし負けた時にどうなるかを シミュレーションして、取り返しのつかないことになるから掛け金をセーブしようと思うのも、立派なギャンブルなのである。
長い目で見た時、自分はどちらのギャンブラーたるべきか、を考えることもギャンブルなのである。ほら、ギャンブルだらけじゃん。
ギャンブルは疲れる。異様にエネルギーを消費する。現代人が疲れがなかなか抜けきれないというのは、仕事やプライベートにおいて、 知らず知らずにギャンブルしていることに他ならないと思っている。これを読んでいるあなたも、立派なギャンブラーであると オレは思っている。

FUNKAHOLICでも、番組の中でどんなテーマにするか、どんな企画を打ち上げるか、3人とも真剣に悩んでいる。 それで皆さんがどう捉えるか常にシミュレーションし、悩んでいる。そのギャンブルに勝ったのか負けたのか、 自分達で何となくわかる。あの木目の壁に囲まれたスタジオはいつだって、勝負気配に包まれている。



2008.4.11 On Air Theme 『肉』
テーマ「肉」て。なんやのんそれ、おい、誰が考えたんかこのテーマ。

まぁオレなんですが。

小学生の時、国語の教科書に「戦争の渦火をくぐり抜け何とか生き抜いて、今はつつましく暮らす母と娘」みたいな話があり、 ストーリーの最後のあたりで、買い物に出かける娘が母にこう問いかける。

「お母さん、お肉とお魚、どっちがいい?」

ここから読み取れる母と娘の心情を表現しましょう的な授業を受けた記憶がある。
こうやって書けば、小学校で習うにしちゃあ結構むつかしいな。

頭の良かったN嶋君が、「このお母さんと娘は、今は肉も魚も食べることが出来ます。だから今はとても幸せなんだと思います」と ハキハキ発言し、クラスのみんなはそうでーす、いいでーす、の大賛成で授業は締めに入っていった。

そこで百万石少年は、なんで母と娘が幸せだったのかちんぷんかんぷんだったわけである。

なぜ肉も魚も選べるのが幸せなのか?
いつの時代でも、肉も魚も選び放題やんか。

そう、百万石少年は裕福な家庭に育った。
戦争になったら真っ先に死ぬタイプだったのだ。

それから10年の月日が経ち、裕福な家庭を離れ独り暮らしを始めた百万石青年は、砂と芝生と紙切れが舞うあの鉄火場、 いわゆる競馬場で、あの母と娘の気持ちが痛いほどわかるようになる。

まさにケツの毛も抜かれるとはこのことで財布の中は本当にすっからかん、家の冷蔵庫はほどなくエンプティ、下を向いて歩けど
500円玉どころか100円玉さえなかなか落ちていない。
「金はともかく、肉くらいやったら道端に落ちててもいいのに」
今日肉が食える人は、明らかにオレより素晴らしい人生を送っている、と3時間かけて歩いて帰った家の前で呟く。
教科書の中の母と娘が真の幸せを手に入れていることを実感した。

オレにとって肉とは贅の象徴である。
やはり肉を食うと元気になるし、肉がたくさん身体についてたほうがたくましく見える。
この番組をお送りしている相方、tomoyasに足りない物はズバリ「肉」だ。
スタイリッシュかつセクシーかつスムース、聴く者にみなミニスカートを穿かせ、ウィットに富んでるどころか服着て歩いて 歩行者天国でシャッターを押しまくるジョークを持つ彼に、敢えて足りないものを挙げるとすれば

「肉」

である。

彼に鋼のような、さらに柔軟な肉体が備われば、それこそ向かうとこ敵無しだと相方ながら太鼓判を押す。
もちろんパーソナリティとしてだ。

転じて、オレに足りないものはカルシウムである。だってしょっちゅう怒ってるもの。
でもカルシウム摂取によりオレが全っ然怒んなくなって「そうだね、まったくだねともやすくん、きみは本当におりこうさんだなぁ」と ウンウン頷いていたら番組は面白くないと思うので、やっぱり今日も肉を食う。
我々パーソナリティに今必要なのはまさに「肉」なのだ。

・・・・・ご納得いただけただろうか?



2008.4.4 On Air Theme 『健やか』
健康であることは大事だとは思うけど、健やかであることが必ずしも立派であるとは限らないと感じる小生なのである。
健康と健やかって、一緒なんやろうけど言葉の響きだけで言えば少し意味が違う気がする。ちょっと昔までは、 好きなの女性のタイプは「不健康な人」だったんだけど、自分がそんな「不謹慎な人」だから罰が当たったのか、 どうも最近はうまく身体が働かない。健康は大事だ。
だからって小生が言う不健康な人ってのは、常日頃から咳が止まらない人とかちょっと躓いただけで骨折する人とか そういうんじゃなくて、基本的に太陽が嫌いなんだよねとか松岡修造とは同じ空気を吸いたく無いんだよねとか、 市場のお嬢さんで言えばカゴを担いで路地を歩いて果物を売る健やかさんタイプより、路地裏の日陰にじっと座って 玉ねぎを売るタイプのほうが好き、という意味だ。

こう、「立ち止まる美学」ってあると思うわけですよ、うん。
僕らが受けた道徳教育ってのは、「前を向いて常に健やかでありましょう」的なことを頭にたたき込まれた覚えがあるんだけど、 その真逆に見いだされるものに小生はエロティシズムを感じていたわけである。
市場を練り歩いて商売する娘さんが見るものや感じるものは、オレでも見たり触れたり出来る。でも、日陰に座ってじっと待つ 商売をする娘さんの思考ってのは無限の拡がりがあると思うのだ。それはその娘さん以外の誰もが想像し得ない世界がある。 そこに初めて座り込んだ娘さんのミステリアスな部分が培われる。

前にばかり進んでは、得るものこそ多いがそれを腹に落とし込む暇が無い。逆に立ち止まって自分の考えを練り込んだほうが、 素晴らしいものが産まれたりすることもあるのだ。前を向いて健やかに生きることを否定しているわけじゃ無い。 健やかに過ごすことで得られるものももちろんある。それに、立ち止まって得たものとどちらが良いものかを比べることも出来ない。 自分が、もしくは感じる人が、どちらが良いかを選ぶことになる。
まだ老け込むのはもちろん早いと自分では思いつつも、今自分が立ち止まるともうそのままずっと動きたくなくなるんじゃないかと 思うのだ。最近の小生は、しばらく立ち止まって得たものを、前を向いて健やかに生きるうえで何かに役立ちはしまいかと 試している最中である。無駄に生きてきた分が本当に無駄にならないうちに、バカが本当にバカで終わってしまわないうちに、 何かの役にたてること。そう思うことこそ健やかということなのかもしれない。

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